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校歌


寺内大輔は、これまで3つの学校の校歌を手がけています。

 ・呉青山中学・高等学校校歌(2002)

 ・安芸高田市立美土里小学校校歌(2003)

 ・呉市立明立小学校校歌(2005)


 ↑それぞれの試聴室にリンクしています(呉市立明立小学校校歌は、ピアノ伴奏のみです)。




 以下は、校歌についての寺内の文章です(2005年4月6日の日記より抜粋、一部修正)


 校歌とは一体何だろうか。
 私はこれまで3曲の校歌を手がけてきたが、そのたびにこの問いについて考えさせられた。

 Scaffale氏主宰のウェブサイト「校歌の花束」では、校歌についての膨大な資料を見ることができる。校歌を作っている詩人や作曲家は極めて幅広く、作詞では谷川俊太郎、まどみちお、草野信平などの著名な詩人の他、地元に根ざした活動を展開している詩人達、時にはその学校の校長先生や国語の先生、また、古いところでは北原白秋、森鴎外、与謝野晶子なども校歌を手がけている。作曲家も同様で、山田耕筰、信時潔、武満徹、さだまさし、小田和正、キダタローなど、実に多岐に渡る作曲家達が関わっているし、その学校の音楽の先生が手掛けている場合もある。
 多くの校歌は、その学校の教育方針や校訓、地元の風土などが歌われているが、それらの表現もまた多種多様で大変興味深い。時にはユニークな校歌もあり、「先生が歌うパートが含まれる校歌(沖縄県宜野座村立宜野座中学校)」「18番まである校歌(長野県諏訪清稜高等学校)」「1番2番が日本語、3番が英語、4番が韓国語(岩手県盛岡スコーレ高等学校)」といった校歌もあるようだ。また、校歌の無い学校というのも意外と少なくない。

 友人と校歌について話していると、まれに否定的な思い出が語られることがある。「全然好きになれなかった。」「歌いたくもないのに無理矢理歌わされた。」などである。歌の好き嫌いについては、個人的な好みの問題に関わるのであまり深く突っ込めないが、「無理矢理歌わされた。」という思い出は確かに私にも思い当たる。校歌は、入学式や卒業式などの式典で歌われるために、式典のための練習(「講堂にすばやく整列する」ことや、「号令に反応して起立、礼、着席をする」といった)の思い出とともに、どこか窮屈さを感じさせる。もちろん、こうした歌のあり方を全面的に否定するつもりはないが(式典で歌を歌うことは、その学校の伝統と深く関わる大切なことだ)、歌というものはやはり自分から歌いたくて歌うものであって欲しいと思う。「無理矢理歌わせられた」ことによって「好きになれなかった」という場合もあるのだから。

 私は、校歌を作曲するにあたり、「学校の良きシンボルとなること」を強く意識してきた。シンボルというものは、「必要性」という点から見ると、しばしば不必要なものだが、「無くても良いもの」を「無くても良い」からといって、すべて排除してしまってはつまらない。私は、この校歌が、学校の木や、窓から見える山々と同じように、普段の子ども達の近くに自然と存在する歌であって欲しいと思う。そして、子ども達が元気良くこの歌を歌えればそれに越したことはないが、辛い時や悲しい時にも、子ども達の気持ちをそっと味方してくれるような優しい歌であって欲しいとも思う。ずいぶん欲張りだが、いつも子ども達の身近にある歌だからこそ、それらは重要だ。作詞の井野口慧子さんも、同様に考えている。彼女の詩からは、校訓や教育方針だけでなく、優しさも大切な要素のひとつとして盛り込まれている。

 子ども達には、ゆっくりとこの歌を好きになってもらいたい。私の、作曲家としての、ささやかな願いである。          



 
作詞の井野口慧子さんと、呉市立明立小学校開校式にて