今回は、アムステルダムで毎年開かれている詩の国際フェスティバルの報告である。
 フェスティバルのタイトル「VURIGE TONGEN」とは、オランダ語で「炎の舌」という意味。世界中から詩人が集い、3日間にわたり朗読、音楽、そして交流を楽しむ。今年は、オランダを含め9ヵ国から30名を越える詩人とアーティスト達が参加した。



ポスター




プログラムとRUIGOORDの地図


 ここRuigoordは、アムステルダムからバスで約30分、近代的な風車が立ち並ぶのどかな場所である。教会を中心にとした敷地に、バー、食べ物屋、占い屋、古本屋などのテントが設営されている。ステージは教会内部にひとつ、野外にふたつ組まれており、終日どこかで詩の朗読や音楽演奏が行われている。来場者は、バーで飲み物や食べ物を買い、のんびりとした時間を過ごしつつステージを楽しんでいる。家族連れも多く、堅苦しさのない、くつろいだ雰囲気が印象的であった。


 
馬もいるのどかな場所(左)、入り口ゲート、VURIGE TONGENとは、「炎の舌」という意味(右)


 
会場の様子。良い天気の中、みんなだらだらとくつろいでいる。子どもの割合も高い。


 
占い屋さん(左)、野外ステージ、ステージ裏がバス(右)


 
野外ステージ裏(左)。
小さなピラミッドの中では映画上映が行われていた(右)。


 
野外ステージその2(左)、出演者、来場者の中には泊り込みも人も多い(右)


  
RUIGOORDの中心にある教会(左)、教会内部、真ん中にステージが組まれている(右)


 教会に入って驚いたのは、中にカフェバーがあることと、マリア様の像の隣にお釈迦様の像が飾られていることだ。聞くところによると、この辺り一帯は、約30年前からアーティスト達が住み着いて手に入れた場所なのだという。オランダには「一年以上空いており、使用されていない土地建物を占拠しても罪に問われない」という法律があり、多くのアーティスト達がそのようにしてアートスペースを開拓した(これをスクワットと呼ぶ)。使われなくなった教会の建物をカフェ付きのアートスペースにしてしまった彼等は、様々な信仰を持つ人が平和的に交流できるようにとの願いを込めて仏像を祀ったのだ。


  
よく見ると、ステージ左にはお釈迦様とマリア様が同居している(左)
ステージ右にもお釈迦様(右)


 寺内の演奏は2日目の夜10時、教会のステージで行われた。日本で参加した「詩のボクシング」と同様、声を用いた即興演奏「言葉を用いない詩」の演奏(朗読)を行った。詩のボクシングでは楽器の使用は認められていないが、このフェスティバルはそういった制約がないので、リコーダー、口琴などの楽器を用いながらの演奏であった。 私の朗読スタイルは、言葉を用いないため、海外で受け入れられやすいという利点がある。ここオランダのフェスティバルでも好評であった。一方、このスタイルは「あれを詩と呼べるのか?」という疑問や批判も受けやすい。通常、詩というものは言葉を組み合わせて作るものだとされるが、言葉を用いない寺内の朗読は、詩と言えないのではないか。2002年「詩のボクシング」に参加した際、極めて多かった疑問(あるいは批判)はそれであった。もっとも、言葉を用いない詩そのものは、さして新しいものではない。ダダを代表する詩人、クルト・シュヴィッターズの「ウルソナタ」(1922-32年に作られた、言葉を用いない詩の先駆的作品)以降、様々な詩人が言葉を用いない詩を実践してきた(「音響詩」「音声詩」「記号詩」「行為詩」など、様々なジャンルがある。)。

 詩のボクシングに参加した時、寺内の存在は明らかに「浮いて」いた。ほとんどの出演者が言葉を用いて伝統的なやり方で朗読していたからだ。だが、この「VURIGE TONGEN」2日目の夜のイベントでは、詩というジャンルを越えた表現を行う詩人が数多くいた。言葉をリズムに乗せてラップのように朗読する人、クラリネットの即興演奏とともに朗読する人、中には、包帯を顔に巻いた過激なコスチュームでフラフープパフォーマンスをする人もいた。ここまで来ると、「詩の朗読」というジャンルそのものがよくわからなくなって来る。「VURIGE TONGEN」は、ヨーロッパでも有数の国際的な詩のフェスティバルである。そのような大規模な詩のフェスティバルに、伝統的な意味での「詩の朗読」をする詩人が少ないのは何とも奇妙なことではあるまいか(もちろん、フェスティバルのカラーや主催者側の意図もあるだろうが)。

 私は、様々なジャンルを融合したり、ジャンル間の境界上にあるような表現形態が好きである。これまでダンサー、映像作家、書道家、美術家といった様々なジャンルの表現者と共演してきたのも、それらの融合によって興味深い共存を求めているからだ。しかし、そうした試みはある種の危険を孕んでいるとも感じている。いつしか「詩」「音楽」「美術」「ダンス」といった区分が意味を持たなくなり、全てが「表現」というひとつのジャンルになるとすれば、それは表現を豊かにするどころか、むしろ貧しいものにしてしまうかもしれない。これまでも、異なる表現形態の融合によって、極めて安っぽい表現に堕してしまった例(私の個人的感想ではあるが)を何度か見てきた。異なったジャンルの共存は、その方法を極めて慎重に考えなければなるまい。
 今回、「VURIGE TONGEN」に参加したことで、「詩とは何か」をあらためて考えさせられた。それは、「音楽とか何か」「美術とは何か」「ダンスとは何か」といった種々の問いにも必然的に繋がっていく。単に「言葉を用いているものが詩、音を用いているものが音楽」といった表面的なことだけでなく、それらの持つ本質を、伝統的な意味でも個人的な意味でも探っていかなければならない。答えを出すのは簡単ではない。だが、ジャンルの存在が曖昧になりつつあるフィールドで活動している私にとっては、常にそれらを考え続ける意識が重要に思える。


  
寺内の演奏(朗読)。演奏終了後には、アンコールを求められた。


 
パフォーマンスを交えた表現をするアーティスト(詩人?)達


RUIGOORDのサイトはこちら




戻る
報告:VURIGE TONGEN (炎の舌)
アムステルダムの国際詩人フェスティバル

2005年5月14日〜16日 アムステルダム、RUIGOORD

直線上に配置
直線上に配置