ザーーーー、ガリガリガリ、ドゥッドゥッ、ドビッドビッ、、、。
 ノイズの音楽、時には大音響にもなる。だが、自分以外の人間には、その音楽を聴くことはできない。

 「耳の音楽」と題されたその作品は、2003年のクリエイティブ・ミュージックフェスティバルで初演された。自らの耳を撫でたり、擦ったり、叩いたり、押さえつけたりするなど、手であらゆる刺激を与えて生じるノイズで演奏する音楽である。同じ空間に異なった音楽が同時に存在しているにも関わらず、その空間からはかすかなノイズが聴こえるにすぎない。
 自らが演奏者であり、聴き手でもあるこの作品は、他人と共有することが不可能な音楽だ。私は近年、こうした「極めて個人的な音楽」に興味を抱いている。
 

「耳の音楽」演奏中。初演時には、大人数での演奏だったため、演奏時間だけはあらかじめ決めておこなった(もちろん、ひとりで演奏する場合は演奏時間に制約はない)。聴衆は各々、自分の耳で自分の音楽を演奏する。演奏終了後の耳の開放感もまた、この音楽の醍醐味である。




 数年前の同フェスティバルでは、「扇風機」と題した即興演奏をしたこともある。扇風機と向かい合って座り、「あー」「うおー」などと声を出し、声のふるえを楽しみながら、声と扇風機のスイッチを変化させる。こういった遊びは、おそらく誰もが一度はやってみたことがあるだろう。ただ声の変化を楽しむだけのこの音楽は、しかしながら奥が深く、なかなか飽きないものだ。

 また、私は2000年から2002年にかけて、呉市立白岳小学校で非常勤講師を務めた際、障害児学級の音楽の授業を受け持った。多くの場合、障害児たちは、自らの音楽をうまく表現することができない
。だが、彼らは、自らの心にある音楽を、自分で楽しんでいることがある。障害児教育について全くの門外漢だった私がこの現場で教えることになったとき、まず彼らの心にある音楽を出来る限り知ろうとすることから始めた。

 
 自分自身が楽しむための音楽は、ただ単に聴衆がいるかいないかという問題のみにとどまらない。それは「音そのものを楽しむこと」とも密接に関わっている。音楽によって何か(感情や風景、メッセージなど)を伝えたい場合、「他人に聴かせる事」が、極めて重要な要素となるだろう。だが、扇風機に向かって声を出して遊んでいる人は、多くの場合ただ音を楽しんでいるだけで、何かを伝えようとはしていないし、その必要もない。

 こ
のような楽しみは、とりたてて新しい考えではなく、古くからあったはずである。ただ、CDにもならず、マスコミにも取り上げられないために、重要視されなかったに過ぎない(ほとんどの場合、「音楽」と呼ばれさえしなかったことだろう。)。だが私は、現代に生きる人々の音楽との関わり方を考えた時、こうした「極めて個人的な音楽」は、音楽の楽しみ方の新たな可能性を切り拓いていくものとして、大変注目している。




「耳の音楽」の楽譜(と言うよりも演奏法)はこちら

「耳の音楽」を演奏会場で演奏した時の録音はこちら(大分、上野の森アートフェスティバルでのライブ録音、2005年11月)注意!10メガを超えるファイルです(高速回線推奨)


クリエイティヴ・ミュージックフェスティバルに関するお知らせはメゾスティックスのサイトで

「極めて個人的な音楽」に関連する推薦図書
 ・若尾 裕:奏でることの力(春秋社)
 




追記:
「耳の音楽」を、演奏会場で演奏することについては、「個人的」という意味では矛盾を含んでいる。聴衆たちがそれぞれ違った音楽を味わったとしても、その体験を同じ空間で共有したという点では、全く「個人的」ではないからだ。だが、これまでしばしば演奏会やワークショップなどで演奏してきたのは、こうした体験が、「極めて個人的な音楽」の愉しみに目覚めるきっかけとなって欲しいからである。また、この作品は、大人数が同時に演奏しても、お互い邪魔にならず、心行くまで自分の音楽を楽しむことが出来るため、そうした体験を多くの人と共有するには極めて適しているのである。

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「耳の音楽」、極めて個人的な音楽について
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